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科学的な政治学と現代日本の政治,およびその周辺

 ここ20年ほどの潮流であろうか。政治学の科学性が強調されている。

 それ以前から科学的な政治学を志向する研究者はいたものの,一般的な大学院生のレベルまで「科学としての政治学」を意識付けられ,いわば科学的政治学の「民主化」あるいは「制度化」がなされるようになったのは,おそらく2000年代に入ってからである。きっかけは,これもおそらくであるが,聖典のごとくあがめられているキング・コヘイン・ヴァーバによる『社会科学のリサーチ・デザイン』(Designing Social Inquiry)の邦訳出版であると見て良い。この本(KKVとかDSIとか呼ばれている)の主張は最終的に政治学において「因果的推論(causal inference)」をせよ,ということに尽きるのだが,途中で単なる「記述」や「記述的推論」も大事だというようなことを書いていて,現在の政治学研究・教育に与えた影響を考えれば,非常な混乱や無用な軋轢を生み出す原因ともなっている。記述やら記述的推論やらが重要であることに異を唱える者は少ないが,因果的推論が最も重要であるということに反発を覚える向きもあろう。さらにいえば,方法として(数理)モデルや統計的手法を用いた数量データの分析が政治学における科学の体現として受け止められることも多い。このことは少なくとも日本の政治学研究において対立的な図式を生み出したといえる。知的資源の無駄遣いであるとしか言いようがない。

 ともあれ,政治学における科学性とは多くの場合,DSIで主張されているような因果関係の特定とそのメカニズムの解明を指しているように思われる。政治学が政治的現象の知的営為であるとすれば,その成果は社会に還元されて政治についての因果関係に示唆を与えそうなものである。例えば経済学の知見は,経済現象についてのものの見方に因果関係的な示唆を与えているといえるだろう。お金をたくさん刷ればインフレーションを引き起こすことは必定なのである。

 翻って政治現象の因果関係はどの程度,一般的な認識として定着しているだろうか。いちいち具体的な例をあげつらうのは無駄なので,筆者が最近目にしたものだけ取り上げる。先に断っておくが,筆者はイデオロギー的な立場のあれこれから,以下の命題について何か/誰かを攻撃する意図はない。

 

命題: 

第二次世界大戦後,日本は憲法9条を持っていたから,戦争を起こすことも戦争に巻き込まれることも戦争に加担することもなかった。

 

 重ねて断るが,あくまでも筆者が最近目にした命題の一例である。ありがちな「9条バリアとか草生えるwww」みたいなことを言いたいわけではない。

 そして,この命題について真偽を確かめることはかなり難しい。論理的な帰結としては意外ともいえるし,当然であるような印象も受けうる。ただし注意したいのは憲法9条というのが日本固有のものであり,この命題自体は「憲法9条を持っていること=日本」は「戦争をしなかった」ということを示しているに過ぎず,ほとんど命題として意味を持たないトートロジーであるということである。

 ともあれ,憲法9条を持っている,言い換えれば平和主義を憲法の条文に書き込むということは,戦争発生を防ぐことの原因になりうるのだろうか。これについてはよく分からない,というのが政治学的な一応の答えになるだろう。そんな無責任な,とお思いだろう。言い訳をすれば,政治学で戦争発生の原因は盛んに議論が行なわれているものの,平和主義的な憲法が戦争を防ぐかどうかは,管見の限り研究の対象となっていない。戦争発生の議論において最も著名なのは「民主的平和論」と呼ばれるもので,民主国家同士は戦争をしないというものである。この民主的平和論を深化させつつ,他方では軍事同盟や経済的相互依存と戦争発生について議論が交わされてきた。そして平和主義的な憲法条文が戦争の発生を防ぐ,あるいは戦争の生起確率を低くするのか,という問いは,民主的な国家が平和主義憲法を有していれば,という留保付きになるのだろう。では,民主的な国家とはなにか,という疑問がさらに浮かぶが,長い話になるのでこれはまた別のエントリに譲ろう。

 話を元に戻すと,政治学が科学化する中で生み出された知見が一般的な認識に定着し政治学が望ましい社会の形成に寄与している,ということは現状では言えないようである。なぜなら,民主国家同士が戦争をしないのであれば,日本が民主国家であるとして,非民主国家と戦争をしていてもおかしくはないし,そうなっていないのは,また別の原因があると考えるのが妥当であるからだ。あるいは,民主的平和論は戦争の蓋然性や生起確率に関する議論だと考えれば,「たまたま」非民主国家と戦争をしていないだけであるということもいえるだろう。

 このように考えると,なぜ日本の「科学的な」政治学は日本の政治に影響をおよぼすことはできていないのか,というパズルは当然に想起される。これは政治学自身が解決すべき課題で,この20年余りの学説史的な展開を整理する必要があるだろう。