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【読了】水谷三公(1999=2013)『官僚の風貌』中央公論新社

 やや古い本であるが,最近,本書を再読した。著者はイギリス政治史や日本の近世から近代,そして現代に至る官僚制・行政史研究で知られる。社会科学においては比較的長いスパンで「日本の官僚制」を描き出す稀有な研究者といえるだろう。特に深い理由もなく再読したのであるが,毎度読むたびに(良い意味で)「四方山話」に圧倒される。所々に見られる現代社会ないし現代官僚制や大学教員(特に東大教授)に対する皮肉や,どこからそのような情報が得られるのだろうかと不思議に思うアネクドートも含めて,大変おもしろく読める本だ。それだけに議論は拡散するし,ひとつの一貫した何かをとらえることは非常に難しい。個人的には近現代日本を形成した官僚のメンタリティやいわゆる「組織文化」を描こうとしているのだと思いながら読んでいたが,それが何なのかと聞かれればその答えには窮する。戦前の二大官庁であった大蔵省と内務省の対比や,戦中の官庁-軍部関係,あるいは東大法科出身者と私大(専門学校)出身者や技術系官僚といった非東大法科出身者の庁内での拮抗,ともに「公」を代表する官僚と政党といった,いくつかの対比・対立関係の中から特徴を浮き上がらせようと試みているのだが,その対比・対立関係に一貫したロジックが働いているかというと,そうでもないように思えるし,むしろ一貫していないからこそ本書のような官僚制への視座が生まれるのかもしれない。ともかく,本書に関しては読めば読むほど味わい深くなるように思うし,今後も折に触れて再読したい一冊である。なお,同じ著者による江戸幕府官僚を描いた『江戸は夢か』も併せて読みたい。

 

 

江戸は夢か (ちくまライブラリー)

江戸は夢か (ちくまライブラリー)

 

 

【書評】デモクラシー,リベラリズム,ポピュリズム:水島治郎(2016)『ポピュリズムとは何か―民主主義の敵か,改革の希望か』中公新書

 トランプ大統領の誕生以来,ポピュリズムをめぐる議論は好悪の感情を伴って日増しに激しさを帯びてきているようにみえる。加えて政策面では人種・文化の多様性を否定し,アメリカ一国中心主義ないし孤立主義的な主張はメディアを通じて報道されている通りである。ただし,注意が必要なのは,トランプ大統領があたかもポピュリズムの体現そのものであり,ポピュリズムが近代社会の発明である自由民主主義(リベラル・デモクラシー)を破壊するという見立てが,必ずしも成立するわけではないということである。 

 本書は,ポピュリズムがリベラルなデモクラシーの副産物であることを示しつつ,市民(有権者)はポピュリスティックな政治にどのように向き合うべきであるのか,その示唆を与える。

 第1章ではポピュリズムをめぐる2つの定義を確認することで,議論の立ち位置を明確にする。ポピュリズムは一つにはリーダーシップのあり方であり,いま一つには政治運動のあり方である。リーダーシップのあり方としてのポピュリズムは,政党や議会,利益集団といった,従来は政治的に重要であると考えれられてきた諸アクターの意思決定をバイパスし,政治的リーダーと有権者とが直接的に結びつく政治手法を指す。一方で政治運動のあり方としてのポピュリズムとは,既存の政治エリートを中心とした合意形成や意思決定を批判し,特権階級としての政治エリートが「悪」であり「我々=人民」が「善」であるという二項対立として政治を描き出すものである。著者は両者の定義が排反するものでなく重なり合う部分があることを認めつつ,後者である政治運動としてのポピュリズムをその定義として用いる。その上でポピュリズムの特徴をいくつか挙げつつ,デモクラシーとポピュリズムが接点を持つものであり,ポピュリズムそのものがデモクラシーを危機に晒すのは限られた場合であり,むしろ野党(非政権党)としてポピュリズム政党が存在することはデモクラシーの活性化につながるとする。

 以下の各章においては,ラテン・アメリカ,ベルギー,オランダ,スイス,イギリスの事例を通じて,いかにしてポピュリズム政党が伸張し,その伸張はリベラルなデモクラシーと不可分な関係が存在することを示す。まずラテン・アメリカ,とりわけアルゼンチンの事例においては経済的貧困を背景として政治エリートへの批判が高まる中でポピュリスティックな政治的リーダーとポピュリズム政党が支持を獲得したことが示される。この事例は政治運動としてのポピュリズムが表出したものであるといえる。ひるがえってヨーロッパ各国における事例は,リベラルなデモクラシーとポピュリズムが表裏一体の関係であり,ポピュリズム政党の主張はリベラリズムやデモクラシーの論理と軌を一にするものであること示している。中でもヨーロッパ各国のポピュリズム政党の多くによる,イスラム排斥の動きはリベラル社会を維持するための方策であるという彼らの主張が紹介されている。さらに最終章においてはBrexitでの「置き去りにされた人々」とトランプの選挙キャンペーンにおいて盛んに使われた「忘れられた人々」とは,政治エリートによって無視されてきた人々であり共通性を見出すことができると指摘し,橋下徹と他国のポピュリスト政治家とを比較しながら選挙というデモクラシーに不可欠な道具立てにより支持を拡大したことを示す。最後にポピュリズムは,その主張がリベラリズムやデモクラシーの論理と密接に関わりを持つことで説得力を有するものであり,現代デモクラシーがポピュリズムの論理を内包しているものであるとして議論を締めくくる。

 本書の特徴は,近年ポピュリズムとして注目を集める様々な事例を丁寧に紹介しつつ,それがデモクラシーやリベラリズムといった近代社会を近代社会たらしめてきた一大発明によって生み出されたものであることを明確に示した点にある。著者はオランダ政治研究の第一人者として名高いが,比較政治研究者としての本領発揮といったところである。これまで政治学においてポピュリズムに関する研究は一国事例研究を中心としており,一貫した理論的枠組みと多国間比較の中でポピュリズムの主張がリベラル寄りに収斂していく様子を描き出すものは本書でも引かれているミュデとカルトワッセルによるものなどごく一部に限られていた印象であり,特に邦語でこのような著作が読めることは大いに意義深い。

 本書を読んでさらに議論が深められると思ったのは,ポピュリズムに対する定義に関する部分と,ポピュリズム政党の組織構造に関する点である。定義は定義として2つの定義が存在し両者が重なり合う部分があることを認めた上で,本書は政治運動としての定義に依って議論を進めるが,それがなぜなのかよく分からなかった。これらは2つの定義というより,むしろ2つの側面といったほうが妥当であるように思うが,いずれにしても選挙至上主義的なポピュリストの主張というのは前者のリーダーシップ・スタイルとしての側面により近く,議院内閣制においてはポグントケとウェブが議論しているような首相の大統領(制)化の比較政治学上の議論と大きく関係している。ポグントケらは,大統領化する首相について大まかな見取り図を示しているが,彼らの議論が必ずしも成功しているとは言い難い。しかし,ポピュリズム研究と関連させることで首相の大統領化という課題についてもより議論を深めることができるだろう。このことに関連して,政治運動としてのポピュリズムは,代理人たる政治家が有権者に対していかに反応するのか,という問題としてもとらえることができるように思ったが,本書とは少し離れた読み方なのでひとまず脇に置いておく。

 第2に,ポピュリズム政党はなぜ権力を集中させるのか,読んでいて素朴な疑問を持った。 この一種の同型化は,ポピュリズム自体が属人的な性格を持ちやすいことに原因を求めることができるかもしれないし,カルテル政党を批判する一つの表現であるかもしれない。揃いも揃って強大な権力をポピュリストの代表者に与え,その権力が人から人へ移り変わる様子が描かれるが,そのような特権性こそポピュリズムが批判しているものではないのだろうか。いずれにしても,それこそがポピュリズム政党の内在的矛盾といえるだろう。

 ポピュリズムは著者が冒頭に引用するように,デモクラシーの影であり,最後に引用するように現代デモクラシーにおいてディナー・パーティーへの招かれざる客である。ポピュリズムに対する戦略は無視することだけでなく,受容することもひとつのあり方だろう。有権者として政治に関与する以上,避けては通れない課題に示唆を与える一冊である。

 

 

わたしの新書論

 新書は安価に手っ取り早く情報・教養を得ることができる書籍である。この10年くらいの間に新書の出版点数はかなり増加してきているように思われるが,その分,当たり外れも激しくなっている印象がある。安価とはいえ,やはりお金を払って得られるものが皆無では困る。研究者や編集者,あるいは職業的に本をよむ必要がある仕事をしている人以外は,基本的に外れ本を読む必要はないだろう。そこで新書を構成するいくつかの要素の中でその質に関わる部分を取り出すことで,いかにして良質な情報・教養を得ることができるかについて考えてみたい。

要素その1:文献一覧,あるいは読書案内

 新書はあるテーマについての入門書である。著者はそのテーマがいかに重要で,学ぶべきものであるかを熱心に説く。読者はそれにほだされて,より発展的に学ぶことを志すかもしれない。そのときに有用なのが,参照文献の一覧である。より教育的なものでは「読書案内」というタイトルのもと,今後読むべき書籍・論文・ウェブサイトがその概要とともに記載されている。読者はこれらの情報から次に進むべき針路を見定めることができるようになる。

 もう一つ,この要素が重要である理由は,文献一覧があるということは著者がそれだけ入念にそのテーマについての先行研究を参照していることに他ならないからである。文献一覧が無くても,入念に先行研究を調査していることはあるだろう。しかし,先行研究を調査していない場合には,文献一覧というものは絶対に存在しない。したがって,文献一覧が存在することそれ自体が,先行研究を踏まえてあるテーマについて論じていることを示しているということができる。さらに言えば,先行研究を踏まえているということはその新書に記載されている情報が正確である可能性が高まるということでもある。可能性が高まるなどと持って回った言い方をするのは,先行研究の読み方がいい加減な著者もいないではないからで,その場合には必ずしも情報の正確性については保障されない。

要素その2:索引の有無

 索引は書籍を書籍たらしめる重要な部分である。索引が存在することで情報獲得の効率は飛躍的に高まる。手っ取り早く特定の情報を手にしたいのであれば,索引が存在するものを選ぶべきである。

 私の恩師は,索引がなければ学術書ではない,と常々口にしていた。新書に学術書に準ずるクオリティを望むべきではないかもしれないが,新書を読む目的が特定のテーマの特定の情報である人にとっては,索引が大きな助けとなるだろう。

要素その3:著者

 書かれたものは,書かれたものによってのみその良し悪しを評価するべきだと考える向きがある。しかし新書を読む場合に限っていえば,このことに必ずしも束縛される必要はない。何か情報を求めて新書を読むのであれば,その情報をもたらしてくれる著者が書いたものを読むべきだ。数量的・統計的なデータが必要なのか,学術的変遷を知りたいのか,社会における問題を抉出して我々が考えるべき課題を見つけたいのか。目的に応じて読むべきものは変わるし,著者が得意とするところは変わってくるはずだ。このあたりの勘のつかみ方は,はっきり言って難しい。しかし,求める情報に応じて読むべきものが見つけれられるようになれば,あとはそれに従って読めば良い。

(あまり大事ではないが)要素その4:出版年

 新書とともに安価な書籍として一括りにされることも少なくないのが文庫であるが,文庫の新刊というのは思っているほど新しくない。どういうことかというと,文庫書き下ろしでない限り,単行本が再度組み直されて文庫となるので,単行本発行から早くても1年程度経過したものが文庫となるのである。日常的に読書をする習慣を持っている人はこのことをよくご存知であろうが,そうでない人にとっては常識ではないようである。だから最新刊だと思って買った文庫が,実は大昔に出版されたものであるということに驚きをもって接することがあるようである。

 それに対して新書は基本的に書き下ろしである。だから出版年が新しければ新しいほど,そこに掲載されている情報は新しい。当たり前の話であるが,このことに留意することが新書選びの出発点である。同じテーマで複数の新書がある場合,新しい情報を得たいのであれば出版年が新しいものを選ぶべきである。

(あまり大事ではないが)要素その5:出版社(〇〇新書)

 新書御三家は『岩波新書』,『講談社現代新書』,『中公新書』らしい。これら3つのレーベルをチェックすることは基本だろう。個人的な印象でいえば,岩波新書は現代的な社会問題や自然科学史に強く,また古典的な名著も多い。講談社現代新書は現代文化やビジネス関連のテーマを扱ったものに良書が多く,全体的な傾向としてはライトな印象がある。中公新書は社会科学・人文科学に長じており,近年では最もアカデミックで学術書とも呼べるような重厚なものまである。

 

 以上,取り急ぎ5つの要素を挙げた。しかし途中で力尽きた。今後も手を加えて,きちんとしたものとしたい。

キャッチーなエントリ・タイトルを付けるとPVが伸びることと明治期の官僚制

 2ヶ月ほど何も投稿していない。それにもかかわらずページ・ビューが100を越えていた。わりあい,戦闘的というか挑戦状的なエントリのタイトルにしたので伸びたのだろうと思う。この2ヶ月ほどは色々と心が折れることがあったり方向転換を志向したりして落ち着きがなかった。そのためにちょっと何かを書くということに手が回らなかった。正確に言えば別の書き物をしていたのだけれど,それが水泡に帰したから心が折れていた。その後は少し立ち直って■■(伏せ字)とか「ぱいそん」とか「えーご」の勉強をしたり読書をしたりしていたのだが,このあたりの身辺事情に関してはどうでも良い。

 

 読書といってもアカデミックなものはそれほど読んでいない。一番熱心に読んだのは司馬遼太郎坂の上の雲』(一〜八,新装版,1999年,文春文庫)で,何度か通読しているが,また読んだ。普通にNHKドラマも面白くて戦史・軍事史は素人っぽい関心を断続的に抱いていたが,それよりも幕末に生まれ明治期に長じた人々がいかに国家建設を成し遂げたかということにはより一層関心を寄せているので,そのあたりについて少し考えたいと思いながら読んだ。

 明治期日本における国家建設,とりわけ官僚制の構築に関しては清水唯一朗『近代日本の官僚ー維新官僚から学歴エリートへ』(2013年,中公新書)という新書にして素晴らしい著作があって,これをはじめとして幾つかの重要な研究がある。その中の多くで指摘されていることは,優秀・有能な人材が日本中から東京に集まり,維新の功労者だけでなく,地方からやってきた彼らが明治期の国家建設に携わったことである。このことは新政府軍のカウンター・パートとして旧幕軍についた諸藩が積極的に優秀な人材を発掘し,東京へ送り込んだことに由来する(ただし諸藩とはいっても,藩政治家レベルだけでなく民間レベルでも積極的に人材供給がなされていたようだ。)。

 司馬『坂の上の雲』はこの点について非常に細かく描写がなされており,特に日露戦争を描くくだりで登場各人物の出自を詳細にすることで,エリート軍人らがいかにしてエリート軍人たりえたのか,そしてこれはおそらく当時の日本における立身出世の一典型だったのだろうということを考えた。そもそも本書の主要な登場人物である秋山兄弟は伊予松山藩の出であり,朝敵であった。それにも関わらず,騎兵の父と呼ばれるようになったり伝説的な参謀となったあたりを見るに,能力主義的な人材登用は明治期の日本において欠かすことのできない国家建設の要素であったのだろう。

 急速な近代国家建設の成功と地縁的紐帯の強度はおそらく関係があるのだと思うが,これを考えるにはまだ付け焼き刃にすぎるので,もう少し勉強してから考えをまとめる。

科学的な政治学と現代日本の政治,およびその周辺

 ここ20年ほどの潮流であろうか。政治学の科学性が強調されている。

 それ以前から科学的な政治学を志向する研究者はいたものの,一般的な大学院生のレベルまで「科学としての政治学」を意識付けられ,いわば科学的政治学の「民主化」あるいは「制度化」がなされるようになったのは,おそらく2000年代に入ってからである。きっかけは,これもおそらくであるが,聖典のごとくあがめられているキング・コヘイン・ヴァーバによる『社会科学のリサーチ・デザイン』(Designing Social Inquiry)の邦訳出版であると見て良い。この本(KKVとかDSIとか呼ばれている)の主張は最終的に政治学において「因果的推論(causal inference)」をせよ,ということに尽きるのだが,途中で単なる「記述」や「記述的推論」も大事だというようなことを書いていて,現在の政治学研究・教育に与えた影響を考えれば,非常な混乱や無用な軋轢を生み出す原因ともなっている。記述やら記述的推論やらが重要であることに異を唱える者は少ないが,因果的推論が最も重要であるということに反発を覚える向きもあろう。さらにいえば,方法として(数理)モデルや統計的手法を用いた数量データの分析が政治学における科学の体現として受け止められることも多い。このことは少なくとも日本の政治学研究において対立的な図式を生み出したといえる。知的資源の無駄遣いであるとしか言いようがない。

 ともあれ,政治学における科学性とは多くの場合,DSIで主張されているような因果関係の特定とそのメカニズムの解明を指しているように思われる。政治学が政治的現象の知的営為であるとすれば,その成果は社会に還元されて政治についての因果関係に示唆を与えそうなものである。例えば経済学の知見は,経済現象についてのものの見方に因果関係的な示唆を与えているといえるだろう。お金をたくさん刷ればインフレーションを引き起こすことは必定なのである。

 翻って政治現象の因果関係はどの程度,一般的な認識として定着しているだろうか。いちいち具体的な例をあげつらうのは無駄なので,筆者が最近目にしたものだけ取り上げる。先に断っておくが,筆者はイデオロギー的な立場のあれこれから,以下の命題について何か/誰かを攻撃する意図はない。

 

命題: 

第二次世界大戦後,日本は憲法9条を持っていたから,戦争を起こすことも戦争に巻き込まれることも戦争に加担することもなかった。

 

 重ねて断るが,あくまでも筆者が最近目にした命題の一例である。ありがちな「9条バリアとか草生えるwww」みたいなことを言いたいわけではない。

 そして,この命題について真偽を確かめることはかなり難しい。論理的な帰結としては意外ともいえるし,当然であるような印象も受けうる。ただし注意したいのは憲法9条というのが日本固有のものであり,この命題自体は「憲法9条を持っていること=日本」は「戦争をしなかった」ということを示しているに過ぎず,ほとんど命題として意味を持たないトートロジーであるということである。

 ともあれ,憲法9条を持っている,言い換えれば平和主義を憲法の条文に書き込むということは,戦争発生を防ぐことの原因になりうるのだろうか。これについてはよく分からない,というのが政治学的な一応の答えになるだろう。そんな無責任な,とお思いだろう。言い訳をすれば,政治学で戦争発生の原因は盛んに議論が行なわれているものの,平和主義的な憲法が戦争を防ぐかどうかは,管見の限り研究の対象となっていない。戦争発生の議論において最も著名なのは「民主的平和論」と呼ばれるもので,民主国家同士は戦争をしないというものである。この民主的平和論を深化させつつ,他方では軍事同盟や経済的相互依存と戦争発生について議論が交わされてきた。そして平和主義的な憲法条文が戦争の発生を防ぐ,あるいは戦争の生起確率を低くするのか,という問いは,民主的な国家が平和主義憲法を有していれば,という留保付きになるのだろう。では,民主的な国家とはなにか,という疑問がさらに浮かぶが,長い話になるのでこれはまた別のエントリに譲ろう。

 話を元に戻すと,政治学が科学化する中で生み出された知見が一般的な認識に定着し政治学が望ましい社会の形成に寄与している,ということは現状では言えないようである。なぜなら,民主国家同士が戦争をしないのであれば,日本が民主国家であるとして,非民主国家と戦争をしていてもおかしくはないし,そうなっていないのは,また別の原因があると考えるのが妥当であるからだ。あるいは,民主的平和論は戦争の蓋然性や生起確率に関する議論だと考えれば,「たまたま」非民主国家と戦争をしていないだけであるということもいえるだろう。

 このように考えると,なぜ日本の「科学的な」政治学は日本の政治に影響をおよぼすことはできていないのか,というパズルは当然に想起される。これは政治学自身が解決すべき課題で,この20年余りの学説史的な展開を整理する必要があるだろう。

あとでエントリを書きます

以前,はてなのブログを作るだけ作ったのだが不都合があったので,新しくまた作った。こうしていくつかの電子空間を無駄遣いしてきたのだが,とりあえずここは意欲ある限り続けていこうと思っている。